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南東三階角部屋日記

三十代前半女性のひとり暮らし日記です。記録としての投稿がメイン。

12月18日 生きた証

この土日は寝てばかりいた。

 

土曜日は半日出勤、午後は部屋でずっと寝ていた。

 

日曜日は14時から16時まで2時間のサービス出勤(上司にどうしても出勤してくれと言われ、断れなかった)、帰宅後は精神が参ってしまってやる気がまったく起きなかった。生理で身体が重たかったし。

 

 

夕飯はきちんと作ったので食べ、真田丸の最終回を視聴し、ベッドのなかでぼんやりと「死」について考えを巡らせていた。

 

私は幼いころから死ぬことの意味や、死後の世界(あの世ではなく現世、つまり私が去ったあとのこと)について考えてしまう癖があった。小さいころは死=怖いという図式があって、とてつもない不安に駆られていた。大人になった今は完全に怖くないとは言い切れないけれど、昔ほど恐怖心に襲われることもなく、死んだら死んだでまあしょうがないかくらいに思っている。ただ、親より先に行きたくはないので、今はまだ死ねないし死にたくはない。

 

そもそも「生きる意味」も「死ぬ意味」もないのだと、私は考えている。人間は自分らを意識高い系だと思う節があるからいちいちそんなことを述べているだけで、人間が生まれ死ぬのは結局のところ「自然の摂理」の一環だと思う。人間はほかの動物らとおんなじで、自然界の一部にしか過ぎない。

 

真田丸を観ているなかで、死ぬことと同時に「生きた証」についても思考を巡らせていた。戦国武将たちは後世に名を残すことや、武士として生まれた運命を背負い自らの人生を生きた。そしてそれらを誇りとして掲げ、死んでいった。もちろん必ずしも皆そうであったとは言い切れないものの、彼らのように一本筋の通った生き方はかっこいいと思うし、私もそのように生きたいとさえ思う。

 

時代は流れ今こうしてNHK大河ドラマになるくらいだから、戦国武将冥利に尽きるのかもしれない。

 

はて、私も生きた証を残せるのかな?

 

自然の摂理に従い生まれ死ぬのであれば、大義名分も金や名誉なんてものも結局のところ証になんてならない。せいぜい生きているときと死後数年間の短い間だけ「彼女はすんごい人だったよね」と言われるくらいで、人の興味はすぐに薄れる。お金や名誉はその後の資産として、家族に富をもたらすことができるが、そんなのもほんの一瞬のことだろう。

 

だったら私が生きた証として残せるものはなんだろう。私にはお金も名誉もない。

 

現実的なことを言えば、生命保険金で家族(両親または弟)にお金を残せる。アイバンクに登録しているので、角膜移植を待つ患者に光を与えられる。

 

そういった些細なことではあるけれど、死んだあとでも残された人に孝行はできるのだと思えば私にも生きた証くらいは残せるし、生きていた価値くらいはあるだろうと思う(考えは安直かもしれないけれどね)。

 

まぁ、生き物として生まれたのであれば、子供を産み育てることが自然の摂理に従った生きた証として誇れるのかもしれない。もし仮に私にもその時がくれば子供を産みたいと思っている。

 

あぁ、日曜日の夜になに考えてんだろ、わたし。考え疲れた。明日からまた仕事なのにな。

寝よ寝よ。おやすみなさい。

 

 

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