昨日は22:02 退社。
私はよく知らない人から声をかけられる。よくあるのが道を尋ねられること。たまに目的地付近まで車で載せていってあげたりもする。声をかけられる理由は多分私が声をかけやすい雰囲気を持っているからなのだろう。服装は派手じゃないし、他人から見たら害がないように見えるのかもしれない。
昨日は、夜から総合病院でのプレゼンがあった。今回のプレゼンは私メインで話すことになっていたので、ものすごい緊張感でそわそわしながら病院の入り口で同僚の到着を待っていた。喉は異様に乾くし、ハンドクリームを何度も付け直すという変な行動をするし、開始時間が近づくにつれ呼吸が浅くなっていった。気持ちを落ち着かせようと、入り口付近の黒い椅子に腰かける。
すると、車いすを押したおじさんがやってきて、私の目の前で止まった。固定レバーで車いすを止めると、「彼女、ちょっといい?」と声をかけてきた。
「ちょっと車を取りに行きたいから、このひと見ていてくれる?しばらくここにいるよね?」
おじさんは推定60代後半、車いすに乗った女性は母親だろうか、80歳近いように見えた。
「あ、えぇ、はい。まだまだいますよ」
突然声をかけられてちょっと焦ってしまいつつも、そう答えた。同僚はまだ来ないし、プレゼン開始時刻にもまだまだ余裕はある。
緊張していたせいかおばあさんと何か話すでもなく、もくもくと発表資料を読み返していた。それにおばあさんはあまりお話ができないようにも見えたので、かえって話をするのは避けたほうが良いかなとも思い、おじさんを待っている間は終始無言のままだった。
「ありがとうね」
戻ってきたおじさんがにこっと笑いながら言った。車いすを押して寒空の下に出ていく姿が、とてもあたたかく感じた。
同僚はまだ来ない。携帯の画面には不在着信 1件の文字。かけなおそうと外に出ようと思った瞬間、今度は隣に座っていた女性が声をかけてきた。
「ねぇ、黒あめ食べない?」
これまた突然の声掛けに、またもや焦ってしまった。どうやら私は突然の出来事に弱い人間らしい。
「え?!あ、はい。い、いただきます」
咄嗟にそう答えてしまった。女性は50代後半、下は白いライン入りのジャージ、上は毛皮っぽいベージュの上着を着ていた。髪の毛は白髪が混じりのロングヘアで、ちょっとちりちりしていた。化粧はしていなかったけれど肌は割と綺麗だった。
黒あめを1個手渡された。さらに、これに入れるといいわよ、そう言って彼女はなぜか飴が入っていた空の袋も手渡してきた。それに応じる私。黒あめはなめずにカバンに入れた。
「今なめればいいのに。おいしいわよ、黒あめ」
「実はこれから一仕事あるので、終わったらいただきます」
「ここで仕事するの?なんの仕事かしら」
「すみません、仕事内容は秘密にしないといけないので」
「そう」
「黒あめ、おいしいですよね。昔、祖母がよくくれました」
「そう、それはいいわね。おいしいよね、黒あめ」
しばらく会話をした後、同僚に電話を掛けた。彼は「ごめん、いま着いた。これから向かう」と言った。
女性がいる椅子に戻ると、彼女は立ち上がり、コンビニの袋と処方された薬を持って玄関へと向かった。帰り際、彼女は「それじゃぁね」と言って病院の外へ歩いていった。私はありがとうございましたと、彼女の姿を見送った。いつの間にか緊張はほぐれていた。
プレゼンはうまくいった。同僚のフォローに助けられ、緊張で倒れることもなくやりきった。無事に会社に着いたのは20時前のこと。ストレスで胃がものすごく痛くなったけれど、なぜだか心は清々しかった。結果は近日中に出るだろう。
もし私たちの案が採用されたら、あの黒あめおばさんのお陰なのかもしれないなぁ。そんなことを思いながら、ほんのり苦くて甘い黒あめを口のなかで転がした。